広島に何が起きた?〜8月6日のこと〜

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tekowaです。

1945年8月6日。日本の広島(ひろしま)という町に、世界で初めて「原子爆弾(げんしばくだん)」が落とされました。たったひとつの爆弾が、町や人々にどれほど大きな影響をあたえたのかを、一緒に学んでみましょう。

1. 原爆が落とされた日

1945年8月6日の朝8時15分ごろ、アメリカの飛行機「エノラ・ゲイ」から、一発の原子爆弾が落とされました。広島の真上で爆発し、まぶしい光と大きな音、ものすごい熱と風が一気に広がりました。

爆弾の名前は「リトルボーイ」。たったひとつの爆弾でしたが、その力はとても大きく、広島の町は一瞬で焼け野原になってしまいました。

2. どうやって落とされたの?

原爆は、高い空の上から落とされ、地面より少し上で爆発しました。これを「空中爆発(くうちゅうばくはつ)」といいます。このやり方により、広い範囲に強い力をあたえることができたのです。

爆弾が落ちたとき、多くの人は通学・出勤・家事など、いつもと同じ朝を過ごしていました。突然のまぶしい光、ドーンという音、すごい熱風で、多くの人が何が起きたのかもわからずに命を落としました。

3. 爆発後に起きたこと

爆発のあと、広島の町は真っ黒に焼け、家や学校、建物はほとんどがこわれました。人々は大やけどをしたり、けがをしたりして、川の近くで水を求めて倒れていました。

このときに助かった人も、あとから「放射線(ほうしゃせん)」の影響で体の調子が悪くなり、病気になったり命を落とすことがありました。見た目はふつうでも、体の中がこわれてしまう「内部被ばく(ないぶひばく)」という問題もありました。

4. どれくらいの人が亡くなったの?

広島では、爆弾が落ちた日から年内までに、約14万人の人が亡くなったといわれています。そのうちには、子どもや学生、病院にいた人など、ふだん通りの生活をしていた人たちもたくさん含まれています。

家族を失ったり、自分だけが助かってしまったことに苦しむ人も多くいました。

5. 生きのこった人たちの声

「被爆者(ひばくしゃ)」と呼ばれる原爆の被害にあった人たちは、その後も体や心に深い傷をかかえながら生きてきました。

なかには、「あのときのことを、二度とくりかえしてはいけない」と考えて、自分の体験を語りつづける人たちもいます。小学校や資料館でお話をしてくれることもあります。

6. 広島の今と、伝えつづけるもの

広島には「原爆ドーム(げんばくドーム)」という建物があります。これは、爆弾が落ちたときにこわれずにのこった数少ない建物です。

今では、世界遺産(せかいいさん)として、戦争と原爆の悲しさを伝えるシンボルになっています。また、「広島平和記念資料館」には、当時の写真や手紙、洋服などが展示され、訪れた人が学ぶことができます。

7. 私たちができること

今、広島にはビルや学校、公園などがあり、ふつうの町に戻っています。でも、人々はその歴史を忘れずに、平和をねがう活動をつづけています。

私たちも、

  • 広島のことを学ぶ
  • 被爆者の話を聞く
  • 折り鶴を折る
  • 家族と平和について話す

こうしたことから、平和への一歩をふみ出すことができます。

8. まとめ|伝えることでつながる平和

たった1つの爆弾で、町も人も未来も大きくこわされてしまった日。それが8月6日です。

でも、その事実を知り、考え、伝えることで、未来の平和をつくることができます。広島で起きたことを「遠いむかしの出来事」ではなく、今もつづく学びとして大切にしていきましょう。


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→ 第3弾「長崎にも落とされた理由とは?」へつづく

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