
tekowaです。
能登地震から1年半、第3部です。
救助の順番と、空から見た町の変化
夫の兄弟家族は、帰省中に被災しましたが、まず最初に救助されました。
これは、あの集落では「帰省者など外部から来ている人」が先に避難対象となり、後から現地に住む人たちの救助が進められる、という順番だったからです。
救助はヘリコプターで行われました。
「空から見た町の姿に絶句した」
後日、夫の兄弟がそう話してくれました。
彼らは被害の少なかった自宅のある地域に、自衛隊の車で送られました。
ただ、車は道路が使えるようになるまで何ヶ月も現地に置いたままにするしかありませんでした。
湧水と野菜、そして傾いた家での暮らし
現地に住んでいた親族たちは、避難所や役場のような場所に身を寄せる人もいれば、倒壊を免れたものの傾いた家で暮らす人も多くいました。
水は山からの湧水でなんとか確保。
食料は、近くの畑で育てていた野菜を分け合いながらしのいでいたそうです。
それでも、電気もガスもない中での冬の生活は過酷そのものでした。
暖房器具もなく、ただ寒さに耐える毎日。体だけでなく、心もすり減っていったといいます。
「出る」決断と、始まった疎開生活
現地に住む人の中には、「もう戻れないかもしれない」という思いから避難をためらう方もいたそうです。
それでも、ライフラインが絶たれた状態では生活を続けることはできません。
やがて皆で「出る」という決断をし、被害の少ない地域にあるホテルや旅館へと移っていきました。
それはまるで“疎開”のような、仮の暮らしの始まりでした。
お弁当が届く日々と、落ち着かない生活
避難先では、毎日お弁当が支給されていたそうです。
食べることはできても、家庭のような温かみのある食卓ではありません。
「住む」ではなく「とどまる」場所――
旅館やホテルでの生活は、安心感よりも緊張感のほうが強かったかもしれません。
仮設住宅への入居、そして次の不安
やがて仮設住宅への申し込みが始まり、現地に住んでいた家族は無事に入居できました。
少しずつ落ち着きを取り戻すかに見えたその矢先、今度は豪雨に見舞われることになります。
その話は、また9月に改めて記録として残そうと思っています。
この記録は、まだ「終わり」ではありません。
支援のありがたさと、本音の間で
支援物資は、もちろんありがたいものでした。
でも、届くまでには空白の時間があり、必ずしも「必要なものが必要なときに届いた」とは言えませんでした。
それでも、誰も文句を言いません。
「ありがたいけど、ちょっと違う」
そんな気持ちがあっても、声に出すことは難しかった。
それでも、全国から寄せられた善意に、どれほど励まされたことでしょう。
“無事”のその先を、私たちは語り継ぐ
助かった――その一言で終わりではありませんでした。
「とりあえず無事」のその先にこそ、本当に過酷な生活があったこと。
それを記録することが、少しでも誰かの支援のきっかけになればと願っています。
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